MOONRIDERS FAMILY TRUST イベント YEAR END PARTYから考察する「第二者」

行ってまいりました、私的には今年最後のムーンライダーズイベント。
会場は渋谷 サラヴァ東京。
クリスマス間近の渋谷は喧騒にあふれておりますな。
場内は大盛況でした。

澤部さんの口笛に感動。そりゃあ拍手も湧きますわな。
何というか、なじみの店とそこに通い詰めているご常連との関係のような絶妙の緩さと、絶品の音楽という稀有な空間でありました。。

イベントの締めくくりの鈴木慶一さんのお話で興味深かったのは「第二者」という言葉である。
「ビートルズ大全」の中に「バンドメンバーは第二者である」というくだりがあるとのことで、この第二者というのは文字通り、「第三者よりも近しい、しかし自分ではない存在」のことのようである。
鈴木慶一さんのお話からは、「第三者」よりも我が儘が言える存在、のように思われた。

家族というと「他人」よりも近しいように思えるが、実はいろいろなしがらみにより、より他人度が高くなるものであるそうだ。

さて、私のこれまでの人生に「第二者」と呼ぶべき存在はいただろうか、と考えてみる。
「家族」は既に否定された。
では、部活動の集団はどうだろうか。

学生時代、合気道部に所属していたことがある。
合宿では一週間ほど山奥に篭もり、合宿所の人以外はほぼ部員の顔しか見ない生活を送ることになるのだが、思い返してみると、やはり部員同士は「第三者」であったと思う。
武道(とりわけ合気道)は個人的なモノだと思われる。
団体戦などがあるわけではなし、一対多数の稽古はあるが、自分は常に一人で戦うので、第一者と複数の第三者がいるだけだ(共闘などという概念がある武道はあるのだろうか?)。
あと、私の知る範囲では、武道を志す者はプライドが高いので、我が儘を言わないという特性がある。
ふむ、私にとっては部活動でも第二者の存在を感ずることはなかったようだ。

これは想像だが、登山チームのメンバーは第二者に近いかもしれない。
過酷な環境下では我が儘を言わないと死んでしまうから、我が儘を言い合うのであると聞いたことがある。

しかし、今、これを書いている中で、実は合気道こそが第二者の存在を感じる最も良い手段なのかもしれない、と思いついた。
内田樹先生によれば、合気道では、争い合う両者を一個の個体として扱う、のだそうだ。
自分と相手(=敵)という存在を一個の存在と捉え、かつ自分の意思下に制御する、ということのようなのだが、たいへんに難しい。
だが、この組み合った存在、を第二者とするのではないだろうか、と思いついた。
バンドの件も、もしかしたらバンドメンバー個人個人が第二者なのではなく、自分を含めた「バンド」という複合体を第二者として扱うことなのではあるまいか。

ややもすると「自分以外はみんな敵」という感覚に陥りがちな「武」の世界において、「自分でもあり敵でもある」存在を、それも「第二者」という位置づけで捉えることにはなにか意味がありそうな気がする。