虫歯の思い出

「大の男が畳を転がって苦しむのが虫歯の痛み」―ガマの油売りの口上なのだが、初めて知ったのは泡坂妻夫の亜愛一郎シリーズだった。

実際、私が経験した中で最も辛かった身体的ダメージは虫歯の痛みだ。尿管結石が(男性の苦痛の中では)最高、という説も聞くが、両方経験した私としては虫歯に軍配を上げる。尿管結石は(吐いているとき以外は)呻きつつも歩き回ることができる(少しでも早く石を膀胱まで落とす目的で体に上下動を与えるべく歩き回るといういじましい努力)。
しかし歯痛は本当に何もできない。ただ呻くのみである。

数十年前の正月にひどい歯痛に見舞われた。上顎の歯槽骨を溶かされるという苦痛を歯医者が開業するまで耐え抜かざるを得なかったのだ。凄まじい痛み、効かない痛み止め(市販)、どんなに痛くても先鋭化するばかりの意識、そして、歯医者に行くまで決して治らないだろうという絶望感(この点においても尿管結石は救いがある。大抵の場合、いつかは石が抜ける)。

子供の頃から歯が悪かった。不器用さが災いしてうまく歯を磨けていなかったのが原因の一つだろうと思っている。ただ、歯医者はあまり怖くなかった。怖いことは怖かったが、虫歯の痛みの方がもっと怖かったのだ。

それでも子供の頃近所にあった歯医者の待合室は、今思い出してもシュールな恐怖に彩られている。
午後の日差しの中、柱時計の立てるコッチ コッチという音と、ときおり外を通るダンプカーの地響き(工業地帯の中に歯医者はあった)、そして診察室からの絶え間ないエアドリルの音…。物憂いのに緊張感と恐怖感が一定レベルで続いていく、微妙な悪夢のようだ。
歯槽骨を溶かされるという拷問を経て、私は歯の磨き方を徹底的に改善した。まだあまり普及していなかったデンタルフロスを歯医者から仕入れ、通常の歯ブラシと歯間ブラシを使った磨き方のレクチャーを受け、寝る前には特に念入りに磨くよう習慣づけた。
これだけで劇的に虫歯の発症頻度が下がったのである。

その後、次亜塩素酸系の口内殺菌剤を使用しだしてからは一度も虫歯を発症していない(かならずうがい用の薬剤であることを確認すること。ただの次亜塩素酸は強アルカリ性で皮膚や粘膜を溶かすため、うがい用であるかの確認は必須であります)。

歯は大事にしよう。歯周病菌は心臓にも悪影響を及ぼすらしいし。